旅と日常のあいだ

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歌の向こう側にある景色や気分を読む。東直子・穂村弘『しびれる短歌』

新聞の書評欄を見てひかれた、『しびれる短歌』を読んだ。歌人の東直子さんと穂村弘さんによる対談集。私はお二方の短歌がかなり好き。穂村さんは散文も大好き。

しびれる短歌 (ちくまプリマー新書)

しびれる短歌 (ちくまプリマー新書)

 

短歌ひとつひとつをじっくり考察するというよりは、テーマに沿った歌を数多く挙げて、ふたりが感じるまま思いつくままどんどんおしゃべりしているような内容。さらさらと読める。多くの短歌が紹介されており、ときどきハッとするような驚きや共感を覚えてドキドキした。そして、短歌に対するふたりの解釈を読むことで、私自身が感じた驚きや共感の理由が説明される感じがおもしろい。なるほど、こういう技巧が効いているからおもしろく感じるんだなとか、こういう時代背景があるから気持ち悪いんだなとか。ひとつの短歌に対して東さんと穂村さんの解釈が異なるものもちらほらあって、プロの詠み手であっても人の作品をどう読むかは揺れがあるのだなーと思ったり。

 テーマの一つ「トリッキーな歌」で挙げられていた下記の短歌をめぐるやりとりが印象的だった。

(7×7+4÷2)÷3=17 杉田抱僕

これは短歌なのかどうなのか? それを語るには、そもそも短歌って何なのか、というところが必要なわけで。ちなみに上記の読み方は「かっこなな、かけるななたす、よんわるに、かっことじわる、さんはじゅうなな」でちゃんと五七五七七になってる。穂村さんはこれを面白がる態度で、一方、東さんはやや否定的な受け止め方。

東「これは現代アートと同じ感覚なのかな」

穂村「短歌が音数によって成立するならこれは短歌だと言える。(中略)音数以外の何か、内面に関わる短歌のアイデンティティみたいなものがあるのかないのか、あるとすればそれは何なのか。(中略)フォルム以外のアイデンティティという部分は万人が同意しているものはないわけだから。それは短歌観の違いでしかないということになっちゃう」

 

ほかに、紹介されていた短歌でおもしろい!と思ったのがこれ。

永遠に沖田よりは年上で土方よりは年下な気が 田中有芽子


すごくよくわかる。夭折の天才少年剣士は永遠に私より若いはずだという気がするし、やり手でイケメンの鬼参謀の年齢は永遠に超えられない気がするよ(土方歳三は死去時34歳、すでに私の方が年上!)。これを受けての穂村さんのコメント「でも僕たちも、夏目漱石より永遠に年下の気がするじゃない? あの顔には一生なれないなと。」がいいよね。感覚として、多くの人が「確かに!」って思うんじゃないだろうか。ちなみに漱石は享年49歳、意外と若い。それであの風格というか、醸し出される文豪感。一生追いつけない気がする。

東さんと穂村さんが、お互いの作風を真似しあって歌をつくるという企画もとても興味深かった。互いに「これは僕っぽい」とか「私はここにこの言葉は使わない」とか言い合うところも含めて。感覚的なようでいて、練りに練って作られている短歌。うちにある東さん穂村さんの歌集を改めて開きたくなる、そんな一冊だった。

▼ふたりの共作で、最高に胸に響くのがこちら『回転ドアは、順番に』

回転ドアは、順番に (ちくま文庫)

回転ドアは、順番に (ちくま文庫)